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  • 2016.05.06 Friday
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一定期間更新がないため広告を表示しています


とうらぶしたりユリ熊嵐見ながら、愛情とヤンデレについて考えた事。

 こんにちは、ほしなみです。最近刀をかーんかーんかーんしてます。知ってる!!!それと、『ユリ熊嵐』見てます。もうすぐ終わるけども……。
 さて、ご存知かと思いますが、最近私はとうらぶの長谷部を「ヤンデレ予備軍」と言って、早くヤンデレにならんかねならんかね、と言ってたんですが(その後軽傷ボイスで何か違う方向に美味しく狂ってはくれたんですが)、自分でも何故「ヤンデレ」ではなく「ヤンデレ予備軍」と感じたのか良く分かんなくて、ちょと自分内ヤンデレ定義を更新すべきかね!と思って、こちゃこちゃまとめたものを上げますー。その序でに、イクニ監督作品とCLAMP作品の愛情の違いについても、ふと考えたのでまとめておきますね!どちらも長いので、記事の続きの方に愛情の違いについての考察を置いておきます。分けて読んでね!!!
 あと、本当にブログ引っ越ししたい。ジュゲムさんさ、最近「記事の続き」機能使うと、フォントが明朝に統一されないんですよ……読み難いよこれ……。Tumblrは「記事の続き」機能を使う為にタグいじらないといけないみたいでもやもやする(上に、何か上手くいかない)し……。TL的なものがある所為で長文は他人様に迷惑かけるし……。ぐぬぬ……。
 Tumblr、折り畳み機能マスターしました。ただ、長文書くとなるとどうしても動きが鈍くなるので、徐々に移行しようかな……と。うーん世の中ままならぬ……。実際名刺とかにはこちらを本拠地指定してしまってるので……。



 さて。私(とΣさん)は今迄、ヤンデレってどういう属性か?について、「優先順位がおかしくなっちゃってる人」という様な簡単な定義をして参りました。その言葉の中には、次の様な積極的特徴が含意されて居るかと思います。
・他律原理主義的(他律こそ最重要!みたいな)
・行動・思考の優先順位の改竄(これは自分がやりたくてやってんじゃない!という部分と、意図的な部分と両方あるとは思うけど)
・上記に幸福や充足感の可能性を見出す(或る種の自傷肯定的な行動スタイル)
cf)皇昴流(『東京BABYLON』『X』)、常・直(『東亰異聞』)等

 で、もし上記だけがヤンデレの特徴だと考えるなら、長谷部は完全該当者なんですよね。一応論拠を上げておきますと、
・やたら主命や主に拘る
・自分の意に染まない事でも主命なら遂行する
・自分の意志を軽んじる(演練開始時の台詞とか)
・主命に肯う事がアイデンティティの一角を成して居る
 にも拘わらず、私は「うーん何か健康的なんだよね長谷部ね!!!」という意識を拭えずに居たんです。で、考えてみると、次の様な消極的特徴も必要なんじゃないかなと。
・自分の思考や行動が道徳や道義に反して居る事への罪悪感
・病的である自覚と諦観
・自分がそういうスタンスである事が誰かを悲しませる可能性を有しているという認識(悲しませる事に躊躇いが無くても可)
 上記の特徴を持つ事で、そのキャラは二律背反に苦しむというか、自己矛盾を抱え続ける状態になり、その不安定さが決定的な破局や不幸を呼び寄せるんだと思うんですよね(ストーリー進行的に)。それが長谷部には存在しない部分だろうなあと……。

 あと、これは実際的にはヤンデレ形成に致命的な一打を加える要素ではないなと考えるけども個人的に好みじゃない点として、長谷部って前の主(織田信長)の悪口ばんばん言うんですよね。それは囚われてるっちゃ囚われてるけど、単なる不満とトラウマ形成に対する異議申し立てであって、何と言うか、信長を客観視しようとするフェーズへの移行を感じるんですよ。全的な肯定(恭順)→全的な否定(反抗)→客観的な視座の獲得(依存からの脱却)という順序を考えるなら、長谷部は既に自力で二番目のステップまで来てて、それって別に放っておいても自分で信長を客観視する様な成長を遂げるだろうなあという感触をユーザーに抱かせる感じがします。そこまで考えてキャラを見るユーザーがとうらぶキャラを考察するかどうかは勿論疑問ではあるけども……。

 ただ、最近追加された軽傷台詞で、寧ろ彼の戦闘狂っぽい面が強化されたので、違った方向に病んでる可能性が寧ろ強まった気もします。それはそれで美味しいです。彼にとっての歴史修正主義者という存在は、主や主に付帯する色んなもの(2205年という時代とか、他の刀剣とか、歴史修正を止めようとする思想とか)を否定してかかって来る存在であり、自分が彼等の刃に傷付けられるって事と、主や主へ帰属する概念が破壊されんとする事が等号で結ばれてるのかな……という電波を受信しました。文章下手ですみませんね……。軽傷の時の「だから?」っていうのは、それがどうしたって意味な訳で、それは「そんなんじゃ壊せない(主に帰属する色んなものを)」という事……であって、彼は彼自身が大切なのではない……だろうと。それがどうした、なのは主が強いからであって自分が強いからじゃない!という宣言として受け取ると(私は)美味しいです!!!補完万歳!!
 彼は彼自身の事を大切にはしてないけれども、それ程に主が大切、という様な描写もやっぱり不徹底に感じる。どっちも中途半端って事は絶対的な悲劇には繋がり得ない訳で、例えるなら『xxxHolic』の中盤の四月一日みたいな成長途中のキャラ……。主への心酔描写(これは主が大切っていうのとは別物。どれだけ他律かって事を表したい)もイマイチなので、全的献身と心服を有する病んだアガペー持ちみたいなキャラ方向でも無い……。
 ので、長谷部ってヤンデレというより、もっと積極的に噛みついて来る感じの病みなんですよね。主を肯定する方法が、そのまま敵をねじ伏せる事なんですよね、きっと彼にとっては。彼が病んでるとすれば、それは「他者を殺し続けないと大切なものを肯定できない」というところや「斬り伏せる事自体を疑わない(何故ならそれは肯定するという心の作用だから)」というところであって、それはヤンデレの様な、自分を変えてしまった決定的過去の軛から逃れられない、という様な病とは別種だなあと感じます。
 信長について未練と文句たらたらなのも、自分が信長にとっての敵を滅する役割から途中で降ろされた、という出来事があるからであって、信長を慕って居たから……とかとは違うなあと。主の人格、愛情、といったものは多分どうでも良くて、自分を使って呉れなかったから不満、自分のアイデンティティを無碍にされたショック……が許せないのかしらと(自分と信長が何処かで対等な自覚があったからこそ、自分で信長に対する客観的な視座を獲得しつつあるのかな)。
 我ながら、凄い良心的にキャラを見てるよ!!!正直これだけ理屈で補完しないと人格統合して見えない程、行き当たりばったりなキャラ造形をしてるなあって思うよ!!!


 続きにイクニ作品とCLAMP作品の愛情に就いて、もうちょい真面目な考察をば。
 
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ヤンデレ考予告。

 こんにちはほしなみです。今日は起きたら一時(ははは)で大学を自主全休し、また三時〜十時迄寝ました。自分って化け物だろうかとたまに思う。

 Twitterで先日こちらを見て、そろそろヤンデレ考察本を出さなきゃいけんなぁと思ったので少しメモ書きをば。
 ぴりーさん(もう直ぐぴりー卒業だけど、まだぴりーさんなのでぴりーさんと書いておく)ともちょくちょく話す「ヤンデレ」ですが、まず自分の言うヤンデレと世の中で言われる処のヤンデレとは、定義的にかなり開きがあるな、と思います。
 上のリンク先ではヤンデレについてアンサイクロペディアのリンクが貼られて居ますが、その記事を見ると「ヤンデレって私が考えて居るよりも広くて分かり易い存在なんだな……」みたいに思う。自分の考えるヤンデレに、ヤンデレ以外の他の名称を付与する事も考えますが、何と名付ければ良いか分からない上に、その名付けに意味があるとも思えないので保留。

 私の考えるヤンデレって、まず最高峰はCLAMPの『東京BABYLON』、『X』の皇昴流なんですよね。ていうか私にとっての二次元男子としても最高峰だけど、まぁそれは良いとして。CLAMP作品以外で考えると、小野不由美『屍鬼』の室井静信、『輪るピングドラム』の高倉冠葉とかもそうかなーって思います。なるべくジャンルに偏りが無い様に配慮した人選なんだけど、これで大丈夫だろうか……(笑)あ、女子が居ないのはちょっと理由があるというか、二次元女子の強さとは何か?みたいな事と絡めていつか話したいので、脇に置いて下さい。簡単に言えば「少女漫画の恋愛的な好意って実は現実的だよね」みたいな話……だと思う。

 ぴりーさんとの夏合宿での結論としては、ヤンデレって「優先順位を間違えてしまって居る人」なんですよね。『X』の11巻のショート―ストーリーに、「たった一人を想い続けることは、病んだ心にしか出来ない」と昴流が言って星史郎を思い出すシーンがあるのですが、私の中でのヤンデレって具体的にはこういう感じです。この言葉の含意は色々とあると思うけれど、昴流に話を絞るならば、北都ちゃんが大切だった自分を捨てる、っていう意味あいがあっても良いかもしれない。
 家族、恋人、友人、師、等々、人間一人にとって大切な人は唯一では有り得ないのだけど、他の全てを捨てる事を躊躇わない程度にたった一人だけ特別な人に気持ちが傾いているのが「ヤンデレ」なのかな、と思います。この定義は結構拡大して、一般に言うヤンデレにも使える気がするんだけどなぁ〜。

 ヤンデレ考察本を出すならば、ヤンデレについて何をどう考えたいか、の骨子を作らないといかんのですが、それを考えてみようと思います。
 ・ヤンデレにとっての最優先命題って何?
 ・ヤンデレにとっての幸福って何?
 ・ヤンデレでなくなる方が良いの?その方法ってあるの?
 ・どうしてヤンデレになるの?
 ・ヤンデレはヤンデレに自覚的なの?
 ・ヤンデレが好きな人を好きじゃなくなる瞬間ってあるの?
 (以下随時追加)
 ぴりーさんにも聞こうっと。

 この記事の意味薄いなー

努力と承認、自己内語

 Twitterで受験生だった一年前って振り返ると……みたいな話をして、ちょっと書いておきたい事を思い出した。この一年間で「努力と結果」の関係について、そして一般的にその二つに因果関係があるされているという事について色々考えた。で、考えた結果を書いておく。雑な前置き。


 
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漫画を読みながら

久しぶりにヴァン騎士を通読しました。受験生とか言うな。
樋野先生の伏線の張り方にちょっと感動したので、何かそこらへんから膨らませて書こうと思います。

 樋野先生が漫画で伏線を張る時って、大体台詞に含ませてるなぁと思って読んで居たのですが(回想の場合仄めかさないんですね)、それのせいで「全て終わった後に読み返すと、新しい伏線がどんどん見えてくる」っていう感じになっていて。ちょっと具体例を上手く示せないのですが…。
 毎度最新刊を買い、二巻くらい前の巻から通して読んでも「何か釈然としない」感じがつきまとい続けるのがヴァン騎士という漫画なのですが、もう終わった事を最新刊の情報・視点から読み直すと、物凄い考えて描かれて居るのが分かって愕然とします。
 漫画の伏線はあからさまに提示される場合が多いと思います。それは過去の残像だったり、未来予知のシーンだったり。夢だったり。けれどそういった伏線は「これは伏線だ」というメッセージのみを読者に伝えるだけで、そこで伏線を張る事自体は何の意味も伴いません。只キャラクターが「そういう状態(過去回想、未来予知、夢を見るという状態)」になっただけです。
 でも会話の中に伏線があるというのは(勿論手垢のついた方法と言えばそうなのですけど)、一度では「違和感」として現れるのみで、それが伏線かどうかを明示するには「反復」しないと効果を得られない。薄いインクを重ね塗りしないと印刷されないみたいな感じですか。その薄いインクを敢えて本当に薄く乗せる事で、後々本当に「嗚呼そうだったんだ」と思わせる効果になってるのではなかろうかと。
 一巻で、理事長が零にタブレットを包んで渡すシーンとかはあからさまな伏線じゃないですか。でもああいうのがどんどん少なくなっていくんですよ。あれが続くと読者も「思わせぶりだな」と感じると思うのですが、それが無い。
 伏線は「これは伏線だ」という自己主張が無い場合無意味なものです。けれどその自己主張が強すぎると思わせぶりになってしまう手法だとも思います。それを本当に「匂わせる・仄めかす」程度に提示するのは凄い。

 伏線がわざとらしい漫画から読者が離れる法則というのを最近ぼんやり思ってますが(実際「引き」が良くてアニメ化、その後失速という例は多い)、伏線は苦難や悲劇といったマイナス要因に働く事が多い事を思うと、それがわざとらしかったりチープだったり、或いは「フラグ」とでも言えばよいのか、「お定まり」の形をしていると読者は興ざめだなと判断するのでは無いかと思うんです。ティーンエイジャー向けの作品からそろそろ卒業しつつある年齢になって、今中学生の頃一時的に好きだった漫画を読み返して思う事はそこです。キツめの伏線描写はある意味でその後の展開の「予告」ではなく「ネタバレ」としての意味を持って仕舞い、物語の先を追う気を削いでしまう様な。
 あと矢張り思うのは、「(疑似)ファンタジー」的世界観ならばリアリティを追求しなくても無罪放免、という考え方をそろそろやめた方が良いという話です。それをやれるのは相当な人だけだから。そこに「作為のかっこよさ」を滲み出せる人だけだからね!
 ディテールの薄っぺらさに関してはもう作者の手腕と何処まで気にすべき作品かという話なのですが、カリカチュアライズされた心理描写や極端に「取ってつけた感」のある過去で感動を誘う方法は本当にやめた方が良い。というより、それを貫くならしっかり貫くべきなのではないかと思います。誰もが西尾維新になれる訳はありませんけど、あの「ワザとらしさ」にはセンスがある。
 最近コドブレ(Code Breaker)のアニメ見たり漫画齧ったりしたのですが、あれの開き直りが凄くて感動しました。もう徹頭徹尾「あるある」で「中二」。世界観も薄い。でもあそこまでいくとやっぱり凄いというか、その「狙ってる感」がかっこいいんです。巻が進むと共にどんどん血縁関係とかキャラクターの過去とか「そうですよね知ってます」系になっていくのに失速しない。E'sにもかつて似た事を感じたのですが、中二やるならあれくらいやらなきゃ、という見本ですねこの二作は…。


 結局中途半端やめろという話になった。

考え考えなんですけれども

恥ずかしい話をしますね。
孤島の鬼読んでからもつもつ考えてた事でもあるのですが。
ありがたいことに友達が色々とBL作品を試し読みさせてくれる(笑)御蔭で、食わず嫌いにならないで済んだものも沢山あるのですが、でもどれも基本的に何処か消化不良で、何処か「それは違うだろう」と思った理由というのが分かった気がするので書いておきます。

私はこう、自分で今までヲタクですという宣言はしまくりだったのですが、腐ってますって違うよなーみたいな事をずっと感じてたのですよ。
てかまあそこに拘ること自体どうなのかって事では勿論あるし、そこらへんはもう考え方次第って事でもあるのだとは思うのですが。
というのも、腐ってるっていうのはBL好きな人っていうかそういうのがつがついく人たちだと思ってて、私としては自分の好みとBLっていうジャンルが合致しないなーみたいなのがずっとあってですね…
何か男性キャラ同士がいちゃつくのが嫌とかそういうのではなくて(というか「嫌」というのではなくて)、むしろ耽美っぽいものの方が好きだなっていうのは感じてました。というのも、やっぱり同性愛に真剣に向かわずにそういうのを書く・読むというのは失礼に当たるんじゃないかなみたいなのがずっとあって。勿論BL作家の方々にも色んな方がいらっしゃるのは(少なくとも頭では)分かってますし、それを否定したいという事でも無いのですが、同人・読者の傾向が自分の好みと遠いなーと。
でもCLAMP作品のあの、ギリギリの感じとかはずっと好きだったし、他にも渡瀬先生の櫻狩りや、波津先生の作品とかの同性愛描写っていうのは全然アリ、というかむしろ凄い好きで、あと意外に思ったのは、澄野と斬野とか、自分の中では全然アリで、寧ろ「こんな青年漫画あったのか!」とハチワンを読んで物凄く新鮮で。そういうの、何だかもやっとしてたのです。
別に悩んでるとかそういうのじゃ無い訳だけど、只単に、支部だのTwitterだのブログだののヲタクとしてのプロフィール書く時に自分が何がアリで何がナシなのかが分かりにくいし面倒くさい!!とかそういう風に感じてました。

それで最近孤島の鬼を読んで、ちょっとそこらへんちゃんと考えようモードになったのです。というのも、余りに真っ直ぐに蓑浦が好きな諸戸に吃驚したんです。それは奇しくも、というか、偶然というか、兎に角私が「真実の『好意』ってこういうものだよなぁ」と(二次元の中でですけどね!)思う形を、それはしてたなぁと思って。凄い吃驚しました。プラトニックだとか本気だとか一途だとかそういう事ではなくて、諸戸の蓑浦への好意というのは例えば友情を含むものでもあったし、恐らくその他様々な種類の好意を含むものだったんだと思ったんです。だから「戀」(最近専ら旧字体派)という形でそれを表してはいるけれど、本当はどんな意味でも蓑浦が好きで、だからこその「戀」だったんじゃないのかな?と思ったんです(説明下手で申し訳ない;)。

そんな事を思って、例えば星史郎と昴流とか、或いは銀月と藍とか(そして或いはAとCとか)、蒼磨と正崇とかを考えた時に、それから自分が好きになれない、近頃消費されてるBL作品の傾向を考えた時に、「好意」をつきつめる、或いは単純化・デフォルメするというのが自分は許せないのかな、と思いました。
「好意」というのは、一種類のみで存在してるものではなくて、例えば「慕う」という言葉が広い意味を持つ様に、「尊敬」「憧憬」「愛情」「友情」「恋情」etc、何種類もの「好き」が縒り合わさってるものなのだ、というのが私の(暗黙値での)理解です。
女の子が男の子を、或いはその逆でも良いのですが、所謂ノーマルカプだと、恋する相手に対する好意って、友情から始まったり憧れだったり親しみだったり、兎に角自然に色んな気持ちが混ざってるのを描くのが自然だ、っていう傾向にあると思うんですね。
(余談ですが私、マーガレット系統の少女漫画なんかも、全てではありませんが読めないんです。これもここらへんに理由があるかな?と思うのですが)
でもこう…BL作品というか、その傾向にある作品って「好き」が一本線で、全然豊潤じゃ無いなぁと思えて…。「恋愛に至らせたい故の好意」だからいけないのかな?とも思うのですが。
だからこそ、自分がBL好きじゃないなーと思うのかなと。

ちょっとCLAMP作品に限った話になっちゃいますけど、全作品を通して、好意が好意以上の噛み砕かれ方をして無いのが、実は凄く好きなんです。
桜ちゃんも「私の一番好きな人」という言い回しをしてますし、昴流も「僕は星史郎さんが好きだった」と言ってますし…。
その「好意」、「好き」はそれ以上でも以下でも無いという考え方、感じ方に影響されてたのかな、と思いました。
其処にはありとあらゆる種類の「好き」が混在してて、そういう「好き」こそ、私は「本当だ!」と思うのです…。
だからこそ(話が大幅に戻りますが)諸戸の蓑浦への愛情を知って吃驚したんです。本当だなって思いました。「友情なりとも受け取って欲しい」「生きて欲しい」と言いつつ、それでも蓑浦を諦めきれない諸戸の気持ちが物凄い生々しいのに初々しくて。そういうのが本当だと思いましたし、これからもそう思うだろうなと。
何にもそういう本気のものを求めてる訳では無いけど、「同性愛」っていうものを描く時に、自分の知らない世界だからって「好意」を安く見積もってはいけない、むしろ深く重く受け取らなくてはいけないのだろう、と感じたのです。

あとはもう一つ、これは完全に私の好みの話になってしまうと思うのですが、「誰かを好きになるというのは(たとえ気持ちの上であれ)命懸けだ」という(これまた暗黙値の)理解があって。そこらへんも、大衆消費されつつあるBLはアウトだろ…って思いました。そういう意味でセブンデイズは良い作品だった!と思いました。
「命懸け」というのは、全力を意味するという事ではなくて、(昔の旅の危険とかを考えると分かりやすいかもしれないのですが)「もう帰れない、戻れないかもしれないという事を思いつつ、でも好きだ」みたいな事を言いたいんです。決意に代償はつきものだというか…。
「好き」って口に出して言う事への「決意」を重々しく捉えすぎなきらいがあるサブカルですけど、実際「好き」と思う事自体大きな決断だと思うのですよ…。例えば単純に「憧れ」でしかなかったものを、その「憧れ」を含む一つ上のディレクトリである「好意」へと昇華させる訳だから。
これだと一目惚れ完全否定論みたいですけど、一目惚れの凄いところは、「好意」の認識と決断が一度に迫ってくるところなんじゃないのかなって。だから衝撃的なんじゃないのかなと…

夢見すぎなのかなぁ。

青少年健全育成条例の改正案、可決されましたね。

今回の条例案可決までの流れに、思うところがあり、まとまりの無い文章ではありますが書いてみました。
一個人の一意見、保護される側(笑)の未成年の意見として読んで頂きたいです。

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名づけてふきのとう周期

季節外れとか言わない!!(笑)

どういう話かっていうと、毎年秋辺りに私、ほしなみがなる状態の事ででして。
要は身体に悪そうなかっこいいもの(作品)を摂取したくなりますよって。
ポルノグラフィティ聞きたくなったり、峰倉作品を読みたくなったり、CLAMP中期作品を読みたくなったり……今年は花帰葬やりたくなったりうみねこやりたくなったり……そういう感じ。
どうも、夏休みに毎年原点回帰と称して本棚の奥から忘れられた様なものを引っ張り出してきてマイブーム化してしまう、その反動なんじゃないかと思ってるのですけどね。

どうしてそれがふきのとうなのかって話になるますが。じゃないなりますが。
多分……カタルシスだかパトスだか知らないけど……そういう、自分の中に溜まった「うわああああ」って気持ちというか、圧力を上手く放出してもらえるんだと思うんですそういう作品って。
「うわああああ」っていうのが上手く出せないと、変な時に泣いたりイライラしたり、私はしちゃうんですけどね。
悲劇と喜劇、どちらも人間が文化としてずっと育んできた訳で(そして悲劇の歴史の法が古い訳で)、悲劇をどうして見る必要があるねん、と思わないでも無いんですけど、やっぱりそれは感情移入をして、すっと泣ける、泣けるところまで持って行ってくれる、という部分があるんだと思うのですよ。
私にはやっぱりその、「泣くところまで持って行ってくれる」ものが必要で、一年に一度位、それを欲しくなる時があります。
「うわああああ」っていう云わば情動というか、物凄い勢いの「何か」を溜めてたのを放出させてくれるんだなぁと思います。

そういうのって、多分誰にでもあるんじゃないかなぁ

私は現実問題で傷ついて泣きたい!!!!みたいな時はそういう助けを借りたりせずに(泣き虫なこともあり笑)いけるんですが、人によってはそういう時にこそ音楽とか本とか、クリエイティブな云わば「虚構」の力が必要なのかな、と思うし、実際「虚構」の「創造上の」力に助けられる事は多々ありますね。
まぁ私の「うわああああ」っていうもの自身が「虚構の」ものから得ている感情なので、なにやら不毛ですけど(笑)

でも誰が止められるんだろう。誰かが想像して創造した世界で人が死ぬことや、別離があることや、敗れてしまったことを信じることを。
それは紛れも無い、「嘘」で、全く「事実」である部分なんて無いけど、自分が信じたその瞬間から「真実」になる訳で……そういう意味でなら、夢枕さんが書いてる、「おまえに月をあげよう」と言って相手が信じたら月はその人のもの、というのも頷ける話で……
(逆にだからノンフィクション小説というものの胡散さに眉を顰めずにはいられない)
だから、誰もも誰かの真実に干渉できないし、してはいけないなぁ……と。
たまに、しようとしちゃっただろうか、と胸に手を当てて考えてみるんですが……ね
浮かれてると忘れてしまう……

何処かの国で人が一人死ぬ事と、何処かの人が創り出した世界で人が一人死ぬ事と、勿論比べられないし比べることに意味も無いけれど、だからこそどちらが重要であるかなんていうことを論じる事は馬鹿げてて。それを論じようとする人は「この」世界にしか住んでなくて。でもそれは凄く、もしかしたら何処かの国で死んだ「誰か」よりもずっと貧しいことで。
私たちが地面に足を付けて、毎日色々やりつつ生きてる「この」世界しか知らないなんて、辛い。
私の中にも私の外にも、違う世界が沢山あって私はそれに少しずつ住めているから「この」世界でも頑張れてるのだと思うのだけど。
それは例えばファンタジーエンだったり中つ国だったりアースシーだったり仮想平安だったり仮想戦後だったり神代だったり古代北欧だったりオリンポス山の頂上だったりする訳で……
数え切れないくらい私は世界を知ってて住んでて、みんなそれぞれ好きで。そうじゃないと私はやっていけないなぁとしみじみ思うのです。

話が凄い逸れてるけど、折角なのでこのまま。

だからそういう「世界」を持たない人は、何なのだろうと思わずにはいられない。勿論物凄い要領よくて、世渡り上手くて、成績とかも私より何倍もよくて、でも凄い凄い、話すと「貧し」くて。あれは何なのだろう。
夏休み中私はそういう、地に足つかない世界をフラフラフラフラしてたから、反動なのかもしれないけど(そして友達が皆、それぞれの世界を持っているから、それが当たり前になりつつあったのかもしれないけど)、それにしてもあれは何なんだ。
どれだけ夢を追っても、そんなの三週間カナダに行って見つかるわけ無いじゃんね……よくあれでやってられるなぁ。辛くないのか……
良くも悪くも現実逃避できないと思うのだけど……芸術というか、クリエイティブな全てというのは遍く「現実逃避」であることは事実だと思うので。

現実から逃げて何が悪いんだろう!逃げ場が無かったら、死んじゃう。私だったら死んじゃう。
学校で久しぶりに会って、あの人たちの生きる世界、私と違う。って思ったし、それと共に今日はっきりと、あの人たちの生きる世界、ここだけだな。って思った……

っあー……かなり衝撃だった

超可愛い

ヲタクっぽいことだったのでカテゴリはこれで。

ミクたんのデスクトップアクセサリ(歌うよ!)なのですが。
MP3とかMIDIとかwmaとかをぶちこむと歌ってくれて超かあいいです。
ミクだけじゃなくて色んなサイト様でいろんなキャラが配布されています。
こちら
めんげーよマジ超かあいい。
東方のキャラとかにほろいどとかがデスクトップで歌うんだぜ…!ミクたんなんてはちゅねもいれると3パターンもあるんだぜ…!
ああもうかーいい


うわ無いわぁ…

下の記事(の小話)の間違いが余りにも酷いので…訂正をいくつか。

1.王冠はデュオニュソスが授けたもので、王冠と共に天へ昇った(アリアドネが神になった)
2.この時点で葡萄酒は(ギリシャ神話に従えば)存在しない。二人の婚礼の時に生まれたから。
3.もっともっとクレイジー(それ違う!/笑)
4.多分描写的にはこんな嘆き悲しんでる暇が無い?茫然自失してる時にデュオニュソスが来る??

みたいな感じです。全体的にです。馬鹿です。調べてから書けよって話だよな。

あっはっはー

しばらくこんなんを書くかも。恋愛色を恥ずかしげもなく書ける題材に飢えてる。全ては弐左がクソ恥ずかしいからいけないんだ(酷)
ちっ…

ヘルメスが主役の話って無いのかなぁ…

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