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  • 2016.05.06 Friday
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読みました……

小川洋子さんの小説感想。凄い何か疲れて憑かれた文章、しかも長いのでたたむ
小川洋子さんの作品は、実は薬指の標本しか読んでなくて、長編が読みたくてでも、博士の愛した数式は嫌でこれを買ったのですが(流行ったの読みたくない……笑)

読んでしまった。そういう、感想です。読んでしまった。

私が常々書きたいと思っていた、[「喪失感に身を切られる瞬間の鮮やかさ」を「この身この感触」に「留めておけない」で「薄まってい」って「思い出にな」ってしまう]
という事を、数段つきつめて書いているなぁと。革命でした。物凄いやっぱりこの、自分の細胞が作り変わる感じが、読み終わった直後は辛くて、でもその「辛さ」を「留めおけない」切なさが、溢れてくる。
でも私たちはまた違う作品を常に作り出していて、心の中は自由で、沼じゃなくて湖で、ラムネもエメラルドも知っているのに、この本の島に閉じ込められた人たちは全部空っぽにして「死」さえも無くすのかと思うと、何だかもう辛くて辛くて。その辛さから目を逸らす事だけは後々後悔するとこの前知ったから辞めたけど、でも本当は途中でやめたかった。辛かった。見えるようで見えない最後(或いは最期)が辛くて。見せてと思いつつみせないで、と言いたくて。ああもうイチイチ幸せな仕草を書かないで欲しいその細やかさが辛さを後押しする。

どうしようもできないことをどうしようもしないかどうにかしようとするかという違いに、何の意味があるのだろうか。逃れきろうとしても、更に上位ディレクトリが存在したらその運命に絡め取られるだけではないのか。

結局のところそういうテーマにしか、割と私の頭は傾かない。ということはこれはつきつめるべきだと。
そして謎を暴くべきではないと。この島の実体と、秘密警察の意図なんてものを暴こうとするのは三流だと。下品だと。

どうして「私」は最後の最期に、物語をあれだけ書けたんだろう。思い出したの?でも水の中は泡ばかりだったのに。
体の記憶というものに関して小川さんは何も触れていないけれど、もしかしたらそういうものだったのかもしれない。嗚呼これCLAMP先生が書いてる……自分の思いは環状線で、いつもいつも同じところを通ってるのです。
小説を書く動作とか、文字を書くということだとか、それからそれから。薄まっていくのは脳みその中で、体の、神経の、もっと実は未知数的な部分には及ばなかったのではないかと。
それが勝利だと思っていたのだけれど、でももっと残酷でした。

思ったのはまず、「生きる」ということは、つまり所謂憲法が言わしめている「健康で文化的」な「生活」は、一人じゃ駄目で。それから、「消す」のは駄目で。「麻痺」も駄目なのだろうと。そう思ったの。あと「諦める」ことも駄目なのだと。
でもそれでも戻らない、絶対的な力の前に屈するあの大勢の人たちは一体何と言う業であって、そして「そう」でない人たちも何と言う業なのかと。
どうして「そう」なのかと。理由は説明されてないし考えることは無粋だけれど、でも何が違うのかと思ってしまう。

もうなんだか嫌だ。擬似的完璧かつ矛盾でしかも細やかなところ程精細に擬似なのに大きなルールほど全く違う、その島の不気味さ、というよりもやりきれない感じに嫌気が。どうしてお金の単位が「円」なのかとか。そういうことを。
しかもちらりと外の世界が暗示されている事が辛い。あるの。あるのかよ、と。しかも外の世界にフェリーが行ってたのかよと。だったらどうして、孤島になるの。あっちからは、無いの?それとも行けたところも同じ世界?

凄く凄く凄く、自分が沢山無くした気分になった。でもずっと抱えていると潰されてしまうのだけど、潰されてしまっていいから、潰される事が背負えている事の証明だからそれでいい、でもそれだと私が生きられなくて存在し続けられなくて、だから捨てるのだけどああもうだめだ
こういうことを幾度と無く打って書いて破って捨てて削除してますがあんまり変わり映えしない。結局この想いを持ったり持たれたりする虚構の人物に異常なまでに惹かれることは確かです。好きでもないのに惹かれることは。
でももう二度と読めない気がする。おじいさんが居る、まだ完全な崩壊にならずにぎりぎり留まっているあの本の前半に、辛くて帰れない気がする。でもそこで帰って初めて、環状線は一回りするの。

どうしようそわそわする……どうしようもなくそわそわする……なくしていくならうみだしていかなくては。でも私はうしなうことを否定してうみだせないでいる人しか創れないのじゃないだろうか。ゲド戦記の、「死」を否定する事で「生」まで否定する、あの西の果てに柵を囲った、愚かな人間たちしか描けないんじゃないだろうか。どうしよう。モモの、時間泥棒しか知らないんじゃないか。私はモモやベッポを描きたいのに……そしてそれはもしかしたら、変身の、芋虫の死亡を喜びピクニックに行く家族かもしれない……嗚呼嫌だ、分かりそうで分からないものを無理に拒絶するその灰色っぷりが嫌。辛い。

灰色になりたくないとずっと思っていたけれど、でも潜んでる。私の隣の席とか、何気ない電車の目の前の人とか、友達とか。

瑞々しくありたいとこんなに願った事も無い。

どうしよう、枯れちゃったら。
ちょっと余りにもダイイングメッセージ風味なのでウザイ顔文字を残しておく。
( ゚∀゚)o彡゜

これでだいじょうわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp;@:「」

真にすいませんでした

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  • 2016.05.06 Friday
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