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  • 2016.05.06 Friday
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とりあえず書いてみたよという表明。

カテゴリ「歴史創作」作りました。居た堪れなくて(ん?)

とりあえず用明朝〜天武朝までの人物羅列を。天武朝はすかすかですが…
長いので追記に。キャラメモ状態です。
*天皇に即位した人物は原則として漢風諡号で載せてます
*時代が前後しますが、大まかに出生年(仮定を含む)順に書いてます
*月日は全て旧暦、年齢は数え年です。太陽暦に旧暦混ぜるなって感じですが赦して…
*仮定や創作には(創)を付けておきました、主に自分の為に(笑)


用明天皇…545年(創)〜587年4月9日(用明2年)。諱は池辺。厩戸は彼の次男で、長男が田目皇子(豊浦皇子)。「新唐書」には、「多利思比孤」が用明天皇だって事になってる。上宮王家の癖っ毛の血は彼から始まった。

蘇我馬子…551年(欽明13年)〜626年6月19日(推古34年)。嶋大臣とも呼ばれた。山背と鞍作の良い御祖父ちゃん。二人とも御祖父ちゃん子である事は確実です。割と私の中で、蘇我氏にしては自分内ランクが高い。

推古天皇…554年(欽明15年、の筈が馬子の出生年とずれとります…)〜628年3月7日(推古36年)。諱は額田部皇女。キャラを決めあぐねてます。

(蘇我)境部摩理勢…571年(創)〜628年(推古36年)。書紀の彼の行動に関してはほぼ信用していません。そこのところも妄想なう。山背を過大評価するというか、山背に厩戸を見ている人。厩戸よりも3歳だけ年上なので、厩戸を弟みたいに思ってたのだろうと思います。山背としてはそこらへんが、嫌ではないけど煙たいというか。割と熱くてひた走る様な、情の強い人だと思います。

厩戸皇子(聖徳太子)…574年1月1日(敏達3年)〜622年2月2日(推古30年)。山背は厩戸が37歳の時の子供ということにしてます。順番としては、片岡>手島>舂米≧山背>日置≧財。≧は同じ年です。人格者で理想家でしょうけど、自分の死と上手く決着が着かずに次世代が甚だ迷惑だったろうと思います。山背にとっては、蜃気楼みたいなもんです。永遠に届かない「何か」。

蘇我蝦夷…586年(用明元年)〜645年7月11日。鞍作の事を、実は誰より信頼していたであろう父親です。勿論馬子の事も敬愛していただろうと。彼にとっての不幸は、新しい時代の幕開けを感じながら老いていくというその「世代」にあっただろうなぁと。山背の事は良くは思ってませんが、だからといって積極的に憎んでいるとかそういう事は無いです。ただまぁ、摩理勢の事が嫌いだと思うので…。自分の邪魔をするなら責任もってやれと言いたいのでしょう。山背の辞書に責任とかいう言葉絶対に無いと思うのだけどな。

舒明天皇…593年(推古元年)〜641年10月9日(舒明13年)。諱は田村。大王位継承争いに関して、山背は余り積極的では無かっただろうと妄想しているので、田村としては、摩理勢は嫌だけど山背は変な人という印象。でも、私の考えている田村はその「変」の印象をマイナスベクトルに持ち込まない人。息子とは大違いだね!

皇極・斉明天皇…594年(推古2年)〜661年7月24日(斉明7年)。諱は寶(宝)女王。漢皇子に関してはスルーします。長男は明らかに母親似です。神経が細くて、ヒステリック。散財大好き。息子(特に葛城)を溺愛してます。弟には冷たいというか、正論ばかりで行動力が無いと決め付けてるきらいがある。自分の息子を大王にしたいが為に、上宮王家と蘇我の共倒れを狙ってる。息子とは同床異夢状態。特定のものに異常な執着を見せるのも、葛城は母親似ですね…。

孝徳天皇…596年(推古4年)〜654年10月10日(白雉5年)。諱は軽。蝦夷と十歳違いですが、朋友。野心抜きに仲が良いです。勿論鞍作とも。お姉さんには違う風に映ってますが…。姉の一族に割と煙たがられながらも、のほほんと生きています。学者肌かな。有間は軽が46の時の子で相当遅いですが、これちょっと間違ってないか?(笑)pdf本でも書きましたが、上宮王家滅亡には納得しておらず、むしろ蘇我氏の力が大きく削がれる事を彼なりに危惧しています。弓削の行方までは流石に知らないでしょうけど、何となく勘付いてる雰囲気にしたいなぁと。鎌足とも結構仲が良いです。学び友達。

山背皇子…609年(創)〜643年11月11日(皇極2年)。とりあえずこの世に居ないレベルの美形で。鞍作との歳の差を、凄い色々考えた末に7歳差で。広がった…(笑)どうやって鞍作を自分色に染め上げたのかに関しては私が訊きたいくらいです(おい)。鞍作の「全部」=山背 な訳ですが、そう仕向けたのは他でもない山背本人だろうと。舂米公認の不倫(え)。でも山背も実は物凄い鞍作のこと好きですよ。只、山背自身自分の感情を俯瞰的に見る癖があるので、自分が誰かを異常に好きである事を利用してる部分が多分にあるだろうと。自分と鞍作の愛を試してるというか。喪っても良いから愛していたいのかと鞍作に問うと同時に、自分が死から逃げない様に縛ってるのかな、死で愛を。愛で死をだろうか。縊死に関しては儒教の影響かな?という妄想がむくむくと湧き出ております。弓削は彼が25の時の子供。

中臣鎌子(鎌足)…614年(推古22年)〜669年10月16日(天智8年)。鎌子から鎌足の以降は何時だろうかと考えていましたが、不比等生誕と共にでも良いだろうかと考えてます。「藤氏家伝」ではなく「大鏡」の、常陸国鹿島出身説を採用。鞍作とは信頼しあっている友人同士ですが、蝦夷が嫌い。というよりも蘇我氏が近い内に瓦解するだろうと踏んでいるので(鞍作もそこらへん自覚ありますが)蘇我大臣氏それ自身とは近づきたくない。慎重かつ要領が良いです。弓削(真人)を預かったのは、一つに与志古郎女が死産してしまった子供と弓削が同じ歳だった、鞍作の必死さから事の重大さを知った、葛城へのあてつけ、等色んな事を考えてます。葛城が一方的に鎌子の事大好きだし、葛城の危うい部分をひっくるめて基本的には好感を持ってはいるのですが、朋友である鞍作との約束は裏切りたくないというか、そういうぎりぎりな部分に立ってると思います。葛城には自分と間人しか無いという事を、口にはしないけれどよく分かっている。

古人皇子…614年(創)〜645年9月12日。とりあえずのところ、「韓人」発言はスルー。娘溺愛。娘の将来を約束してくれるなら死んでも良い、みたいな事を言ったのではないかと思います。蝦夷に対しては恩は感じてますが、自分が大王になりたかったかと言えば別に全然そういう気は無かっただろうなぁと。山背の母方の従弟に当たる訳ですが、双方共に全然関わりが無いですね。特に古人は山背の第一印象から、近づきにくいと思ってるかな。

蘇我鞍作(入鹿)…616年(創)〜645年6月12日(皇極2年)。「入鹿」は書紀編纂時に作られた穢名だという説に従い(お借りし笑)、拙宅では鞍作で。というか鞍作って名前にしたら、途端にヘタレた(おい)。ここだけの話、「入鹿×山背」だと思ってたんですけど(おい)、鞍作って名前にした途端にそれらが吹っ飛んだ。むしろ山背信者になった。鞍作にとっては山背は運命の人ですね正しい意味で。山背は彼にとっての「世界」=「全部」=己を内包する己を取り巻く全て、なので、山背の死は鞍作が自分の命で購ってでも止めたい事だったのですけども。でもそこで山背が自身の死を望む事で物凄い矛盾を抱えなくてはならないのですよ。山背死亡後はもう廃人そのものかなぁ。蘇我氏の軍備の異常増強に関して言えば、父親を諫めなくなったのが一つと、寧ろ父に賛同して今まで何とか留めようとしていた蘇我大臣氏の滅亡を早めようとしていたという事にしてます拙宅では。御祖父ちゃん子でもあるので、一族を想う気持ちというのは本来ならば強かったと思うのですが。

蘇我赤兄…623年(推古31年)〜?(672年以後)。波乱万丈の人生。有間と挙兵したかったのは真実だという事にしています。葛城への恐怖と恩賞に目が眩んで有間を裏切った事をずっと後悔しています。次に若し自分が仕えたいと思う人が居たならば、どんな事になろうと付き従い続けようと思い続け、それが大友だったと。大友は、赤兄が自分に有間を見ている事に気付いているし赤兄も認めてますが、それでも揺ぎ無い信頼で繋がれていた主従かな。大友は耳面刀自(鎌足の娘で妃の一人)と共に上総に逃げたって事にしてます。してるんです。耳面刀自が直ぐ死んじゃったとかそういうこと言わない!(笑)大海人は赤兄を流刑にしますが、配流地が不明な事から、「主を追って何処へなりとも好きに行け」という事だと勝手に解釈しました。

天智天皇…626年(推古34年)〜672年12月3日(天智10年)。山科で行方不明になり、沓のみが残されていたので其処に墳を築いたという話が「水鏡」にありますが、山科とは中臣氏の本貫地ですよね…。もうどんだけ好きなのかと。鎌足の後を追う様に死んでますよ…12歳も違うのに…。間人を喪ってからは鎌足だけに支えられて生きてたんだろうなぁと。本当は物凄い神経細くて、繊細な人だろうと思います。女の子みたいな、というか。彼もまた、山背と違う意味で自滅的な性格。

間人皇女…629年(創)〜665年2月25日(天智4年)。間人=中皇命説は推してます一応。葛城が、どうしても間人を天皇に(というかこの国で最も高いところに)据えたかったのではないかと思ってます。葛城が間人を好いているよりも、葛城好き。とりあえず軽皇子の所に嫁いだ時は相当鬱状態だったかと。明らかに葛城の怒りを買うわけです、寶と軽が。

天武天皇…631年(舒明3年)〜686年9月9日(朱鳥元年)。鸕野との夫婦関係やら額田さんとの恋愛やらは妄想なうです。でも大海人が鸕野を妹扱いしてて、でも鸕野はかなり本気で大海人の事好きっていう、「オヅヌ」の設定は萌えだと思う。兄に比べて父親似で度量の広い落ち着いた人な印象。余り感情の起伏を見せない感じ。有間には同情しているし、甥の大友にも格別何かある訳ではない。が、兎に角兄が嫌い。というか見ていて痛いなーと思ってる。

弓削皇子(中臣真人)…弓削皇子という人も中臣真人という人も実在の人物だったろうと思われますが、同一人物にしているのは完全なる創作です。636年〜670年4月30日(天智9年)とします。死亡年は法隆寺焼失の年。真人と名前を変えて鎌足を父とし、653年に法名を定恵として入唐。665年に帰国後、法隆寺に入り、養父の死の一年後、法隆寺の火災と共に死亡、という感じで。ちなみに火をつけたのは正体を嗅ぎつけた葛城です。言うまでも無い。勝手に救われ勝手に呪われた一生ですが、清々しい人となりにしたいなぁ。

有間皇子…640年(舒明12年)〜658年11月11日(斉明4年)。赤兄が自分を裏切ったのかどうかを知らされずに死んだというのが余りにも酷いと思って、鎌足が密かに(軽皇子の息子だから)真実を教える、みたいなシーンが書きたい。そして葛城がキレると…(笑)親族の男性誰かしらが生きていれば、こんなことにはならなかったろうにと思わずにはいられない。

弘文天皇…648年(大化4年)〜672年(天武元年)。ですが上総に落ち延びた設定で。おっとりしているキャラで、父親に面差しそっくりだけれど、もっと優しい感じ。叔父の有能さを知っているので、壬申の乱に至ってしまった時は自責の念に駆られてると良いと思います。それがわかる大海人だから逃がした…みたいな。叔父を何だかんだで好いてると思います。高市と十市の事に関しては妄想中。


鸕野とか入れてやれよ…(笑)

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