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  • 2016.05.06 Friday
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優しさの夢を見る

 彼は、優しさの夢を見た。微睡みの中、優しさそのものを夢に見た。
 これは喩えではない。彼は本当に、優しさ自体を夢に見たのだ。
 彼は夢の中で、それを外から見た。心は冷えて居た。優しさの全てを知り、全てを理解し、全てを何処かで見下して居た。
 彼は、己の人生でそれまで受けた全ての優しさが、死んで固まり、己から失われた事を知って居た。そしてそれを誇りに思った。冷酷さは、彼にとって愉悦だった。勝者の証だった。そしてその悦びも勝利も、どれほど吟味しても、全く主観的ではない、正しい、間違いない、公平なものとして、彼に与えられたものだった。寂しさは無かった。不安も、後悔も、怖れも、愛惜も無かった。優しさは彼の中で、卑俗な悪か、若しくは道化だった。
 彼は物体としての優しさを視認出来て居たから、ふと冷酷で残虐な心から思った。この物体を切り裂いて、中を見てやろう。優しさそのものの中身、物理的な意味での中身なんて、誰も知らないに違いない。人類史上初めて腑分けをする者になったつもりで、彼は嬉々としてその思い付きを実行した。彼は手に鋭利なナイフを持って居た。正義の刃だった。客観という天から下された、何よりも誰よりも正しい一太刀だ。誰もが正しいと思う銀色だ。
 優しさに刃が触れると、意外な程すっぱりと切れた。頭上へ振りかぶり、下方へと切り下した感覚は、滑らかという言葉そのものだった。切り口からは、真っ赤な液体がどくどくと流れ出た。彼は切り口に手をかけると、左右に押し開いた。液体はとめどなく流れ、中で蠕動する臓器の様なものの動きに合わせて、溢れては彼の足元を汚した。
 臓器の様なものは、奇妙な外見をしていた。優しさから溢れ出た液体は真っ赤であるのに、臓器の様なものは真っ青だった。空の色、海の色、それでもまだ足りない程の、濃い青だった。柔らかい臓器そっくりの質感に触るとひんやりとして居て、熱を帯びた赤い液体とは対照的だった。彼はそれらの臓器をも押し退け、優しさの中心を探そうと試みた。優しさはもがく事も無く、ただひっそりと其処に存在して彼の動きを受け容れる儘になって居る。
 青い臓器を右に退かし左に退かし、腕を突っ込んではかき回していると、ふと硬いものに突き当たった。ひんやりとして、硬く、つるつるとしている。思い切って引き抜こうとしたものの、頑として動かない。彼は苛立って、臓器を何個か鋭いナイフで切り落とすと、その硬いものをじっくり眺めようと、空いたスペースに残りの臓器も寄せた。
 その硬い物は、鈍い色の金属で出来て居た。それが鉄なのか、アルミニウムなのか、銅なのか、はたまた白金なのか、それは分からなかったし、恐らくどれでもないだろうと思われた。あからさまにハートの形をして、中でしゅわしゅわと音を立てて居た。鼓動がするかと思ったら、まったく違う音を出して居る事が彼には意外だった。上下左右をくまなく見ようとしたが、金属のハートは、何処とも繋がって居ないにも拘わらず、頑としてその位置から動かなかった。彼は優しさと言う、彼にとっては小さな存在が彼の思う通りにならないのが我慢ならなかった。ハートに刃を突き立て、中のしゅわしゅわと音を立てるもの諸共、外に引きずり出してやろうと考えた。優しさが死ぬのかどうか彼には分からなかったが、どうでも良い事だった。
 ナイフを逆手に持ち、しっかとハートを刺し通す様に押し込んだ。最初、刃は貫通したかの様に見えた。しかし、刃はそのままずぶずぶと呑み込まれ、彼が慌てて手を放すと、遂にはハートの中に丸ごと入り、一体化してしまった。
 彼は驚きと怒りとで、ハートを思い切り叩いた。鈍い音が鳴った。中でしゅわしゅわ、という音が激しくなった。臓器の蠕動が、呻く様な音を出した。赤い液体が先程切り裂いた時よりも余程多く溢れ出る。彼は奇異に思い、もっと内部を良く見ようと切り口の一番下の部分に右膝を載せた。
 その時だった。彼を内部へとくるみ込む様に、切り口が収縮し始めた。彼はぎょっとして、慌てて脱出しようと試みた。しかし収縮は非常に早く、また赤い液体が物凄い勢いで外に向かって溢れた為、切り口と彼の間に水幕が出来て、阻まれてしまった。
 彼は初めて、優しさというものに恐怖を感じた。優しさなのに恐怖を覚えさせるとは何事だ、と彼は何処か超然とした不満を覚えながら、しかし同時に酷く焦っても居た。このまま優しさの中で窒息死してしまうのは、恐ろしい事に違いなかった。
 臓器が物凄い勢いで蠕動する。天井の様な薄い膜から、赤い液体が滴り落ちる。それは彼の足元にどんどんと溜まっていく。酷く温かかった。青い臓器に触れると、火照りを収めてくれる様な心地よい冷たさだった。金属のハートは、しゅわしゅわではなく、ごぽごぽと音を立てて居た。彼は不快に違いないのに、此処が故郷の様な気がして来た。彼の衣服は、真っ赤になって居た。彼の目は最早、赤と青しか識別できず、触角は温かいか冷たいかだけしか分からなかった。
 彼は、いつしか長い時を優しさの中で過ごして居た。温かさに擦り寄り、冷たさに甘えた。そして、ハートは依然としてごぽごぽと音を立てた。
 彼はもう、正しさが分からなくなっていた。思い出す事も無くなっていた。彼はただ、誰の事も抱き締められないのが寂しかった。嘗てその様な存在が居た気がして、その事が辛く悲しかった。その存在を惜しんで已まなかった。
 大切な誰かを抱き締めて眠るという想像を、彼は精密に描き出した。自分の力加減、寝る向き、かける言葉、全て選び抜いた。でも、その大切な誰かについては何も想像出来なかったし、どんな存在なのかも分からなかった。その事が、彼を時折絶望へと誘った。
 或る時、彼はハートのごぽごぽという音が止んだのに気付いた。酷く不安な気持ちがした。何かが壊れてしまう様な気がした。手探りでハートを見つけると、そっと撫でた。金属だった筈なのに、柔らかかった。もっと良く見ようと近寄ると、頑として動かない筈なのに、向こうから近寄って来た。上下に手を翳すと、宙に浮いて居る筈なのに、彼と同じ床に座って居た。
 彼は、それが待ち人だとその時気付いた。しかし選び抜かれた力加減も、寝る向きも、かける言葉もこんがらがって、忘れてしまって居た。彼はもう、何も分からなかった。大切な存在に出会っても、不安も辛さも悲しみも消えなかった。だが、ハートだった大切な存在は、彼の想像よりもずっと上手に抱き締め、寝転がり、言葉をかけてくれた。その事が、彼を救った。
 彼はそっと目を閉じた。目を閉じても、景色は変わらなかった。もう目は見えなかった。強く抱き締めた。だが、腕の中で身じろぎもしなかった。彼の触覚は死んで居た。だが、幸せだった。

 彼は目が醒めた。優しさの中に飲み込まれる幸福を、彼は思い出せなかった。だが、救われた夢だった事だけを覚えて居た。

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